こんにちは!
行徳のもまないほぐし屋CS60マワリテメグルです。
少し前、Instagramを見ていたら
棺に入ったデヴィ夫人の写真が流れてきました。
とても美しく飾られていました。
「え、亡くなったの!?」
とびっくりしましたが、それは「生前葬」のイベントでした。
生前葬と言えば、
昔ソニーという会社でCDやアイボを開発した方も
それを行い、今は「天外伺朗」というお名前に変えて
別の人生を歩まれています。
最近うちの近所では「家族葬」をする小さな建物が立て続けに二軒も建って驚きました。
住宅街に急に作られ、日常の中に急に「し」をイメージさせるものなので「離れたところに建てればいいのに」と、すごく違和感を感じました。
話が逸れますが、それはまるで田舎に行った時
一面に広がるメガソーラーを見た時の気持ちと似ていました。「え、こんなところに…なぜ?」
という不自然な気持ち。
「メメント・モリ」
というラテン語で「死を想え」という言葉がありますが、それは私の感覚だと「死は人が避けられない自然な事、循環の一部であり、いま生きている事は凄い事、生きている時間を大切に」というようなメッセージを受け取っていましたが、
住宅街に突然できたら家族葬や
田舎に突然できたメガソーラー達からは
そんな示唆に富んだメッセージを感じ取る事ができませんでした。
前述のデヴィ夫人の件も、
何か商業的なイベントの匂いに
少し違和感を感じますが、
天外伺朗さんのケースはすんなり受け入れられる気がする。
この違いはなんなんですかね??
まあ、いずれにしろ、私達には寿命があり、
残りの時間があとどれくらいあるかなんて分からないのです。
明日かもしれないし、1年後かもしれないし、
それはいつ起こってもおかしくない事。
また話は逸れますが
私は「誰もが幸せになって当たり前」だと思ってます。
人が何の為に生きてるかと聞かれたら
あなたは何と答えますか?
私はやっぱり「幸せになる為」だと思っています。
それは誰しもが持っている生得の権利。
もし今あなたがそれを感じられないなら、
何かズレている事がある。
自分ではない、何ものかに刷り込まれた考えがある。
意図せず、信じ込まされていたもの。
自分を幸せにしないものは何なのか?
人に迷惑かけながら好き勝手やるのも違うけど、
そこに横たわっている信念や思い込み、
こうあるべき、普通こうでしょ?みたいな
「そもそもの前提を疑う」事からそれは始まると思います。
一度死んだつもりになって
新しく生まれ変わった気持ちで
毎朝生きて行くのもいいかもしれないですね。
