廃業と転機
辻堂に開いた寿司屋が、息つく暇もないくらい繁盛している間も、休みの日には、自分の怪我を治してくれた先生の診療所に通い続けていました。
その先生の治療のやり方をずっと見て学び、その内に家族、友人の肩凝りなどは治せるくらいになっていました。
寿司屋を開店してから8、9年経った頃、回転寿司が流行り始め、周りの寿司屋がどんどん潰れていったのです。
そして、本物の明石の蛸よりも輸入の柔らかい歯応えのない蛸を美味しいという若い人達を見て、寿司屋としての未来に希望が持てなくなっていました。
そして、ずっと興味があったカイロプラクターへの転機の時期が来たと思いました。
まず短期で卒業できるカイロプラクティックの学校を卒業しました。
そして同期3人と一緒に、開業している治療院を4店見学させてもらいました。どこも自分の考えていたのとかけ離れて素晴らしく、今の自分には無理だと一旦諦めました。
しかしその後、その先輩方が卒業した学校を紹介してもらい、一念発起し勉強し直そうと決意しました。
とは言え、妻と三人の息子を養わなければなりません。そこで会社勤めをしながら、日本カイロプラクティックドクター専門学校に通い、卒業したのです。
その後、新横浜に開業するまでに、さほど時間はかかりませんでした。
何故なら、寿司屋をやりながらも、自分の怪我を治してくれた先生の元でずっと勉強させてもらっていたからです。
この先生は、二重の意味で私の恩人となりました。
さて、私が何故カイロプラクターになったかを皆様に知っていただくため、簡単に説明しようと書き始めたのが、思いがけず長い物語となってしまいました。
これまで読んで下さってありがとうございます。
これまで紆余曲折してきましたが、どれも無駄な経験はなかったなと改めて思いました。
そして、自分が助けられたこのカイロプラクティックで、多くの人々を助けていきたいと心に誓ったあの頃を思い出し、気持ちを新たに頑張ります。
これからもよろしくお願いいたします!